タイ在住32年になります、現役サラリーマンのシニアライフビギナーです。
今日は、愛読書の致知からの抜粋です。
私も、シニアライフの旅が既に始まっていますが、「人生に遅すぎることはない」という言葉は、その通りだと思います。

私が『遅すぎることはない』という言葉を初めて聞いたのは、高校三年生の時だったと思います。進路指導にも熱心な大柄の体育の先生からでした。その時は全くピンとくることもなく聞き流したはずでしたが、はっきりと脳裏に残った言葉でした。
『これは、この学校を卒業した先輩から来た手紙だ!”今はxxをやっていますが単純作業で面白くありません。もっと勉強しておけばよかったと後悔しています”と書いてある・・』
『私が返した返事は、”そう思うなら今から勉強しろ!遅すぎることなどない”だ!』
『いいか、お前ら、今はまだ気付かんかも知れんが、人生、遅すぎることなどない!周りや過去のせいにして諦めるな!よーく覚えとけ!』

でした。
そして、私が、この言葉を実行に移したのは、22歳を過ぎた頃です。
当時、会社に”人材発掘制度”みたいなものがありました。
一念発起して、2年間、仕事をしながら猛勉強!そしたら会社が大学に行かせてくれました。それは私にとって、人生の大きな転機となりましたが、大学は『人生に遅すぎることはない』に確信を持たせてくれたトリガーにすぎません。
卒業後は、働いて、働いて、働いて、、ここまでの旅路を歩んで来ました。

若い頃は、こんな形相で仕事をしていたと思いますが、、今思えば大切なプロセスだったと思います!


偉業過ぎて自分とは比較にはなりませんが、今日のお話しは”安藤百福氏”、今でも自分を奮い立たせてくれる偉人の一人です。
日清食品創業者・安藤百福氏の生涯とその哲学、そして側近であった筒井之隆氏が見た素顔について以下要約です。
「人生に遅すぎることはない」安藤百福氏の波乱万丈な生涯と教え
側近が見た「世界の食を変えた男」の素顔
本記事の語り手である筒井之隆氏は、読売新聞社の記者時代に安藤百福氏と出会いました。取材を通じて懇意になり、安藤氏から「君みたいな人がいると便利だから」と誘われ、41歳で日清食品に入社。以来、秘書室長や広報部長として22年間にわたり安藤氏に仕えました。
筒井氏が安藤氏の言葉を書き留めたノートには、多くの教えが遺されています。その中でも特に印象的なのが「仕事を戯(たわむ)れ化せよ」という言葉です。自ら企画立案した仕事は、成功も失敗も自分の責任であるため、遊び心を持って夢中になれる。「興味を持って取り組んだ仕事には疲労がない」と語る安藤氏は、生涯を通じて仕事を楽しみ、好奇心を原動力とした人物でした。
度重なる逆境と47歳での無一文からの再起
安藤氏は1910年、日本統治下の台湾で生まれました。幼くして両親を亡くし、呉服屋を営む祖父母に育てられたことで商売の面白さに目覚めます。22歳で独立してメリヤス販売で成功を収め、日本に移住後も幻灯機製造や製塩、蚕糸事業など、時代のニーズを捉えた事業を次々と成功させました。「世の中を明るくする仕事はないか」と常に周囲を見渡す好奇心が、その行動力の源泉でした。
しかし、その人生は順風満帆ではありませんでした。戦中戦後には、憲兵隊による拷問やGHQによる不当な収監を経験。そして1957年、理事長を務めていた信用組合の破綻により、47歳にして全財産を失います。残されたのは借家だけという絶望的な状況でしたが、安藤氏は「失ったのは財産だけ。その分、経験が血肉となった」と自らを奮い立たせました。
再起をかけたテーマは「食」でした。戦後の闇市でラーメン屋台に並ぶ人々の幸せそうな顔、そして収監中の飢餓体験から得た「人間にとって食べ物ほど崇高なものはない」という信念が、彼を即席麺開発へと突き動かしたのです。
執念が生んだ「チキンラーメン」と「時間の発明」
自宅裏の小屋で、1日4時間の睡眠で丸1年間、安藤氏はたった一人で開発に没頭しました。「おいしく、保存ができ、手間がかからず、安く、安全」という5つの目標を掲げましたが、最大の壁は麺の乾燥方法でした。ある日、妻が天ぷらを揚げる様子を見て、高温の油で水分をはじき出す「瞬間油熱乾燥法」を閃きます。これにより、長期保存とお湯による即時復元が可能となり、1958年、48歳の時に世界初の即席麺「チキンラーメン」が誕生しました。「発明は閃きから。閃きは執念から。執念なきものに発明はない」というのが、安藤氏の信念でした。
発売当初は価格の高さから苦戦しましたが、テレビCMや試食販売を駆使し、爆発的なヒットとなります。安藤氏は単に商品を作っただけでなく、大量生産・大量販売という新しい事業構造そのものを構築しました。また、「私はラーメンを売っているのではない。お客様に時間を提供しているのだ」と語り、調理時間を短縮したことの意義を説きました。「時計の針は時間を刻んでいるのではなく、命を刻んでいる」という言葉は、経営を超えた人生訓として筒井氏の心に刻まれています。
常識を覆した「カップヌードル」と業界への貢献
創業時から世界市場を見据えていた安藤氏は、1966年のアメリカ視察で、現地のバイヤーが麺を割って紙コップに入れ、フォークで食べる姿を目撃します。ここから「カップヌードル」の着想を得ました。
開発の難所は、麺をカップにどう収めるかでした。試行錯誤の末、寝床で天井が回る感覚から「麺を伏せて上から容器を被せる」という逆転の発想に至り、製造ラインの自動化を実現します。1971年、61歳で発売されたこの商品は、あさま山荘事件の報道映像を機に火がつき、世界的な食品へと成長しました。
また、安藤氏は特許を独占せず、協会を設立して製法特許を公開しました。「会社は野中の一本杉ではなく、森として発展すべき」という考えのもと、業界全体の育成に尽力したのです。
96年の生涯現役、「人生に遅すぎることはない」
晩年もその探求心は衰えず、90代で宇宙食ラーメン「スペース・ラム」を開発。2005年に野口聡一宇宙飛行士によって宇宙で食され、亡くなる直前に夢を実現させました。
2007年、96歳でその生涯を閉じた安藤百福氏。
「人生に遅すぎることはない。60歳、70歳からでも新たな挑戦はある」という彼の言葉は、超高齢社会を生きる現代人にとって、希望と勇気を与える黄金のメッセージとなっています。

これは、決してシニアだけの話しではありません。
20代、30代、40代、50代、60代、70代、80代、90代、100代、、どの世代にも通じる普遍的なお話しです!
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それでは、明日もいい日でありますように!
Have a Nice Day!




