『どん底のとき、誰がそばにいてくれたかや?』
は、野村克也氏の名言ですね。
自らを『野村 – 野球 = 0』と仰るくらいの熱血野球人ですが、数々の名言を残されています。
例えば、「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」は、仕事でも戒めとしています。
今日は、「どん底からよくぞここまで這い上がった!」と心から尊敬するお一人、浜野慶一氏のことを思い出しましたので、投稿しようと思います。私は、浜野氏が東京で開催された「PMシンポジウム2016」で講演された際に、ご本人の生の声を直接聞くことができた一人です。今でもそのお話の内容は、私の心に深く刻まれています。
――親父、こんどばかりはまいったよ。
「もしかしたら、もう持ち直せないかもしれない」浜野はめずらしく弱音を吐いた。
「あんたといっしょに仕事がしたいだけなんだ。カネはあるときでいい。いっしょにがんばろう」金岡さんの言葉に、浜野は金型を磨く手元がぼんやりと滲んで仕方がなかった。
全文は↓こちらのリンクです!
★https://www.nc-net.or.jp/up/magazine/pdf/emidas_VOL18.pdf
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【上記リンクの要約です】
浜野製作所は小さな工場から始まり、設備や技術が乏しい中で精密板金にシフトし成長を目指していた。創業者の父の代から、職人としての姿勢とモノづくりへの情熱が受け継がれていた。だが、父、はがんで他界。母も後を追うように亡くなり、浜野は悲しみに暮れる間もなく、母が管理していた経理をゼロから構築するという大きな課題に直面した。
さらに2000年、工場が火災で焼失する大きな試練が襲った。仮工場で営業を再開し、納期対応の迅速さで取引先から評価され新たな受注を得たが、火災後の負担と新工場の経営が重くのしかかる。火災処理や仮工場の整備に追われ、板金部門の営業は遅れた。そんな中、修行時代の仲間である金岡裕之が無給同然で支え、「一緒に頑張ろう」という言葉に浜野は救われた。
板金工場の操業開始後は「短納期」を強みにするため、浜野と金岡は不眠不休で働き、やがて生産管理システムを整えた。2003年にはプレス・金型工場を設立し、経営基盤を固めた。
工場は明るく清潔なデザインとし、若者が敬遠しない環境作りを意識した。
浜野は「モノづくりにはストーリーが必要」と考え、製品の背景を従業員と共有。障害を持つ娘の寝台用パイプの加工依頼を受けた際、社員全員が工夫を凝らして取り組み、モノづくりの喜びと使命感を再確認した。父から受け継いだ情熱を胸に、浜野製作所は社会に貢献し続けている。
浜野慶一(はまの・けいいち)
株式会社浜野製作所の2代目社長。1993年創業者・浜野嘉彦氏の死去に伴い浜野製作所の代表取締役に就任。町工場が直面する量産加工の厳しい環境から脱却するため事業構造を見直し、自社の強みを生かした様々なプロジェクトに挑戦。産学官連携としての電気自動車 「HOKUSAI」、深海探査艇「江戸っ子1号」、異業種連携としてアウトオブキッザニアによる工作教室、墨田区内の工場巡りツアー「スミファ」を主催する「配財プロジェクト」、ベンチャー企業を支援する「Garage Sumida」とその取り組みは多岐に渡る。こうした実績により数々の賞を受賞。2018年には天皇陛下も視察に訪れた。
出典:AKTIO Corporationさん
記事に、
「それから「WHILL(ウィル)」という次世代電動車椅子を作ったベンチャー企業WHILLのお仕事もしています」
とありますが、これは私も注目している電動車椅子です!
『この完成度の高い車椅子の陰に浜野氏がおられたとは!うむうむ納得!』
WHILLとは?
これまで40年以上、会社人生を送って来ましたが、色々なことがありました。
どん底も何回か経験しましたが、これまで、ずっとそばで支えてくれた家族や同僚には感謝です!
これからのシニアライフでも色々なことが起こると思いますが、いつも感謝の気持ちを忘れないようにしたいと思います。
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それでは明日も良い日でありますように!
Have a Good Day!